お別れ
昨日、お通夜。
今日 告別式に行って来た…。
「Hです。ご無沙汰しています」と男性の声で電話があったのは昨日。
「実は女房が亡くなりまして」
とてもお元気な声なので「Hさんが亡くなった事」と一致しなかった。
去年の入院で同室だったHさん。
私が入院した時は、すでに5ヶ月の入院生活を経て退院目前だった。
「舌が荒れてるので、うまくおしゃべりできないのよ」とおっしゃりながら、私には くぐもった声でよくお話してくださった。
退院が見えてるので、気分も高揚してらしたんでしょう。
ご主人からケーキの差し入れもあり「スイーツ断ち」をしていた私も ご祝儀でご相伴した事もあった。
退院するHさんの治療や現状から 私はある病気を思い浮かべていた。
そして3ヶ月後、私が退院する直前に、Hさんは再入院してらした。
私の入院生活、最初と最後の1週間を Hさんと過ごす事になったのも不思議なご縁。
私の退院後、Hさんは10時間にも及ぶ過酷な手術を受けた。
Hさんは ご自分の病名については一度も口にしなかったけれど、治療や手術の事は よく私に話してくれた。
その大変な手術を終え、術後の想像を絶する苦しみも乗り越え退院されたのに。
ゆうべ、お通夜の後、棺のお顔を見せてもらった。
あまりに綺麗なお顔だったから、すごくすごく嬉しかった。
術後の一番 ひどい時を見ているから、傷跡もほとんど見えない事に驚いた。
入院中からすっぴんでも肌がすごく綺麗だったけれど、痩せて小さくなったものの、陶器のような綺麗な頬だった。
薄く紅をさした口元が微笑んでいた。
治療の後半は痛さとの闘いで「眉間にしわが寄ってた」とご主人。
「痛みから解放されて、この微笑みになったんでしょう」と。
「医師からも余命宣告されていたし覚悟はしていたけれど、宣告よりも早かったです。でもあの痛みが続くよりは、これで良かったんだとの思います」と毅然とおっしゃった。
入院中、よく聞いた海外へダンス留学してるお嬢さんも帰国して、最後の一ヶ月は、つきっきりで看病されたそう。
4人の成人されたお子さんと、優しいご主人に看取られてお幸せだったと思う。
今日は喪主挨拶で、ご主人が病気の経緯などを語られた。
私が思っていた通りの病名も ご主人の口から出た。
よく頑張られたね。
ずっと元気はつらつで体操教室を続けてらしたHさんを知らず、闘病の1年間をご一緒した事になる。
遺影の写真は、私の知らない髪の長いHさんだった。
でも笑顔は同じ。
お通夜では、笑顔さえ交えて対応されてたご主人も 挨拶でHさんの思い出や、Hさんへの感謝の言葉を語られた時は泣いてらした。
出棺の前の対面で、小さくなったHさんの頬やおでこに手を触れた。
「お疲れ様でした…」
「ありがとね~ 花桃さん」って、あのままの笑顔で返事してくれるような気がした。
この年齢になると 葬儀に参列する機会も増える。
私は「病気友達・入院仲間」の分だけ 人よりも多いような気がする。
不謹慎ながら、私はいつも妄想する。
「私の告別式は、こうやって…ああやって…」
子どもが居ないから、喪主挨拶する夫は たった一人なんだな…。それは、かなり寂しい。
私の弔辞は「やさしい言葉いっぱいで、参列者の涙を誘う事間違いない」Nちゃんにすでに頼んである。
私は皆に泣いてほしいんだ。
私の信仰してる仏教は生花は使わないんだけど、私の祭壇には 花を飾ってほしい。
と、センチメンタルな妄想をしてるようだけれど、実は「私は長生きするだろうな…夫が先に逝くだろうな…やだなぁ」なんです。
「あっちが痛い。こっちが痛い」と言いまくりながら、絶対に長生きする…やだなぁ。
もしも…もしも私が先に死んだら、夫は喪主挨拶で「病気を免罪符に よく食べ、よく寝ていました」って言うかなぁ。
Hさん、60歳までお元気でいらして、最後の2年弱は辛い闘病生活だったけれど、ご家族の愛情に包まれた穏やかな時間でしたね。
充実の人生の最終章のページの片隅にいられた事を 私は感謝します。
合掌。
| 固定リンク
「病気(SLE・骨頭壊死など)」カテゴリの記事
- 痛いのが当たり前(2020.04.07)
- 甘い誘惑(2020.02.05)
- 知らないよねぇ…(2019.12.18)
- ぴっちぃ号なんて・・・涙(2019.12.04)
- ぴっちー号で 新ルート(2019.11.06)