母のお役目
母が献体をした大学病院から「令和元年度に行われた解剖学実習および手術手技実習等において解剖させていただきました」とお礼と報告の書類が届いた。
『遺骨になって戻ってくるまで長いと2~3年かかる事もある』と聞いていたので、え?もう終わったの?と あっけにとられた。
いつだったんだろう? 母の事を思わない日は無かった。 寂しいとか悲しいとかじゃなく、ただただ愛おしく切なく。
元気だった頃の母だったり、私の事もわからなくなってからの母だったり。 日常のいろんな場面で「おかあさん…」とつぶやいてた。
母が最後のお役目を果たしている時 きっと私は仏壇の前でお参りしてたよね。・・・根拠の無い自信。
愛知県アイバンクからも献眼のお礼の書面と冊子が届いた。
お母さん・・・お母さんは ずっと『誰かの為に』の人だったね。
人前に立って指揮をとるタイプではなく、縁の下の力持ちとして何でも一生懸命やる人だった。
自身の十代の頃は継母から弟妹を守り、結婚後も弟妹に心配りをし、家庭ではつましく良妻賢母。
夫(私の父)は糖尿病→脳梗塞→心筋梗塞で55歳で逝去。思いがけず娘の私が難病を発症してからは 夫と娘のダブル介護(介護とまではいかない)の時期もあった。
それでも泣き言も言わず、かと言って肝っ玉母ちゃんで笑ってたわけでもなく、ささやかな幸せに感謝しながら頑張る人だった。
例えば、10個貰ったリンゴを3個おすそ分けするとしたら、綺麗な物から順に3個選ぶような人だった。
「お母さん、貰う人は10個を見てないんだから、自分ちでベスト3個を食べてもいいんじゃない? 傷んだのを3個選んであげるわけじゃないんだし」と私が言うと
「どうせあげるなら一番きれいなのがいいでしょ」と言う母だった。
献体した人・献眼した人の名前と年齢の一覧表に載る母の名前が誇らしい。
お母さん、すごいね。
「ゆうこが ちゃんと手続きしてくれたからだよ」 逆に 私を誇ってくれる母の顔が浮かぶ、声が聴こえる。
それだって元気な頃から 事ある毎に「ゆうこ、お母さんが死んだら 不老会とアイバンクに忘れずに電話してよ」と刷り込んでくれてたから。
ある時は「今は うんうんと聞いてるけど、実際 その場面になったら、お母さんが解剖されるの分かってて連絡できないかも」と言う私に「死んだら ただの体なんだから、痛くもかゆくも無いんだよ。それよりも献体すれば、お葬式の手間が省けて ゆうこの体が楽なんだよ」と懇々と説いた。
実際は 献体の連絡をしても葬儀告別式を行ってから遺体を引き取ってもらう事が可能だったんだけど。
最後の最後まで『ゆうこに負担かけないように』だったなぁ。
さて、その名簿の中に『匿名 5歳』という記述があった。
それを見た瞬間 「うっ…」となり、涙声で夫に「5歳だって…」と言うと「病気の子だったかもしれないですね」と夫。
あ、そうかも。
闘病生活の中で両親は余命も承知して、短い命を精一杯生きた証として・・・誰かの役にたてようと決意したのかもしれないな。
母は新聞やテレビで「難病の〇〇ちゃんが渡米して手術」なんてニュースを見ると 郵便局や銀行へわざわざ行って募金してた。
仏壇にはよく「〇〇ちゃんの手術が成功しますように」と書いた紙が置いてあった。
その遺伝子を持つはずの私だけれど・・・10個のリンゴのうちの3個をおすそ分けするなら、綺麗な順に3個は自分ちで食べたいです!
しかしながら、なぜだか夫が そういう募金を 複数 継続しています。
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