母の老い

2019年9月17日 (火)

夢の中で

 母の夢をよくみる。 これは母の生前の頃も。

実家らしき場所で 少々 老いてはいるものの 自分で歩き話せる母と夢で逢ってた。

「あ、お母さん こんなに歩けるんだ」

「あれ? お母さん ちゃんと話せるんじゃん」 毎回 そんな風に思った。

 

 母が亡くなってからも似たような夢をみる。

二日前の夢。

棚の上に母を置いて(「置いて」なのよねぇ)たのを忘れてて、慌てて見に行くと 母はちんまり体操座りしてた。

「ごめんねぇ~~~!」 急いで棚から降ろすと、母は私の両掌にのってしまうくらい小さい。

これは先夜みたドラマ「セミオトコ」が再現されてたんでしょう。

そっとそっと布団に横たえる。

「足 伸ばしていいよ~」 これは 千葉の台風被害の影響。

停電の為、エアコンをつけた車内で寝ているニュースを見て『ずっと足伸ばして眠れてないんだなぁ…』と思ったから。

続いて、母に氷を入れた水を渡す。 これも台風で被災した人たちが「冷たい飲み物が欲しい」「凍らせたスポーツドリンクが飲みたい」と言ってるのをテレビで見たから。

 自分で上体を起こした母はストローを挿してゴクゴクと飲む。

喉乾いてたよね・・・自分でちゃんと飲むくらい渇望してたんだね・・・。

愛しくて可哀相で泣けてくる。

「お母さん 慌てて飲んじゃだめだよ。ゆっくりゆっくりね」 あ、聴こえないんだった。

夢の中で私は声を出して泣いてたような気がする。

 

 あり得ない事と事実が入り混じる。

 

 夕べは、我が家の窓の外から母の呼ぶ声がする。

マンション中層階の東側の窓の下には、平屋のお家があり、そのお家の屋根の上から「ゆうこ~ 起きてるぅ~?」と 母が呼んでいる。

「起きてるよ~」と窓から顔を出す私。

 

 千葉の台風被害が私の夢の中に色濃く現れているようにも思える。

 

 母は私に何か伝えたいのかな・・・? とも思える。

 

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2019年9月 4日 (水)

おかあさん・・・

 毎週火曜日、もう母の居る特養へ行かなくていいんだ・・・と思う。

スーパーでは、毎週 母に買って行ったミニあんパンを見て もうこれも買わないんだ・・・と思う。

 撮りためた母の写真を時々 見る。

ちゃんと目を開けた最後の写真は 今年の4月20日だったなぁ。

 

 その後は 眠ってる写真ばかり・・・と思ってたけれど、眠ってるんじゃなくて しんどくて目を閉じてただけかもと 近頃 思う。

私も体に異変が起きて休日救急診療を受診する時 ドクターの質問に必死で答える以外は目を閉じてるもんね。

点滴などで少し回復してくると 目を開けて周りを見る余裕ができてくる。

 母は ずっとしんどかったんだろうなぁ。

 

 目を閉じた母も 時に綺麗な顔をしていて、そんな時は色んな角度から撮影した。

息を引き取った時、最初の写真が一番いい表情だった。

 

 母が亡くなって 寂しいとか悲しいとかは思わない。 

母が見せてくれた穏やかで幸せな臨終の姿は、私が抱いている死生観を裏切らなかった。

それまでギュッと結んでいた唇がうっすら開かれ、目も薄目を開けて周りを見ているようで、半眼半口って これなんだと感動したっけ。

私は死ぬのが怖くない。 母の最期を見送って その気持ちは更に強くなった。

 

 母は、最後まで私に安心を与えてくれたんだね。

きっと本人の体は ずっと辛かっただろうに。

 

 たくさんの母の写真を眺めていると、亡くなった直後の写真に比べて、他の写真は みんな眉間にしわがあるのが分かる。

やっぱり母はずっとしんどかったんだね。

 息をひきとって、それまでの苦痛から解放されたんだね。

ほわぁ~っとした顔。

 

 グループホーム入所時代、ホームではヤクルトを配達してもらっていた。

それまでヤクルトを飲む習慣の無かった母も喜んで飲んでいた。

特養へ転居した時、ヤクルト配達のシステムが無かったので、私が毎週 届ける事に。

10本セットを買って行くと、先週の残りが3本ある。 最初の頃は次回は5本買って帳尻を合わせていたけれど、途中から新しい10本を置いて、残っていたのは私が持ち帰る事にした。

 私にもヤクルトを飲む習慣は無く 持ち帰ったら自分で飲むしかないなぁ・・・と 無理矢理飲んでいた。

ところがね・・・だんだん美味しくなってきたのよねぇ。

 今では お風呂上がりのヤクルトが楽しみに。

この頃 スーパーで買い物をする時、自分用のヤクルトを買っています^^

 

 毎晩 ヤクルトを飲みながら「おかあさん・・・」と 心で小さく呼んでみる。

愛しさと切なさが胸にひろがる。

 

 そうそう、母のヤクルト・・・2018年年明け、母のユニットでインフルエンザが蔓延した。 支援員さんも罹患。 利用者さんも10人中7人が感染した。

 無事だった3人の中に母も居て 支援員さんが「ヤクルトのお陰かもしれないですねぇ」と言ってたなぁ。

 

 

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2019年8月17日 (土)

面影

 母の初盆。

 私が信仰している宗派では「お盆に帰ってくる」という概念は無い。

母を送ってから寂しさを感じるよりも ただただ母を 母との記憶を 毎日 感じて過ごしている。

 13日、私の毎月の内科定期診察の折、病院で『母を見た』・・・母によく似た人に会った。

 綺麗なショートカットの白髪、華奢な上半身、優しい色合いのパンツのウエストから腰のライン・・・母そのものだった。

娘さんと思しき人(私よりは一回り若そう)に手を引かれて歩く姿は ちょっと頼りなくて『あぁ、この方も認知症を患ってらっしゃるんだな』と思うと 余計に愛しくて。

 見ず知らずの人を凝視するのは失礼だけど、私の目は正面からでないと焦点が合わない。目の端で見るともなしに見るって事ができない。

見たい・・・母にそっくりなその人をもっと見たい。

 時々 視線を外しながら、体の向きを変えてまで2人の姿を追う私。

 そして、娘さんらしき人の問いかけに その方が答えるシーンに遭遇した。

『あ、こんな風にお話できるんだ!』予想外の反応になぜか嬉しくなってしまった。

ここ数年、友達とのおしゃべりの中で「母がこれこれこう言ってさぁ」「母はこう言うんだよね」などと聞くたびに『あ、皆は お母さんと こういう会話できるんだった!』と 妙に驚いたっけ。

 話せない母が 私には普通になってしまってたから。

 娘さんを信頼しきって頼ってるその方が ずっとお元気ですように…と 心で手を合わせた。

 

 母の夢も何度かみた。

 先夜の夢。

 サッカースタジアムに来てる私は 母を入り口に置いて来てしまった事に気づき 慌てて探しに行く。

長椅子に寝かされて目を閉じている母を見つけて ちょっとホッとする。

「お母さん、ここで寝てる? それとも 皆の居る所へ行く?」

母がどう答えたのか覚えてない(私の声が聴こえてたのかどうかも不明)けど『皆の居る所へ向かう』事にした私。

メインスタンドからバックスタンドへ向かわなきゃいけない。

 母は歩けないだろう・・・肩を貸しても無理そう。

・・・現実なら 杖をついた私が母を支えて歩くのすら不可能なのに、夢の中で私が選択したのは『母を歩かせるのは怖いから、私が抱っこしていこう』でした。

 母をお姫様抱っこする。

現実世界では、台所からリビングまでお盆にお茶のセットを乗せて両手で運ぶ事さえ無理なのに(苦笑)

 母は軽かった。 軽々とお姫様抱っこして 私はメインスタンドからバックスタンドへすたすたと歩いた。

亡くなった時 母の体重は30㌔そこそこだったはずだから、これくらいの軽さだったかもしれない。

 

 バックスタンドの『皆の居る所』には、私達母娘の知り合いらしい若いカップルが居たけれど、う~気が利かない。

長椅子に母を寝かせて 水を飲ませてやりたい、顔を冷たいタオルで拭いてやりたい・・・けど、彼らが全然 反応してくれないので、私がタオルを冷やす水を探しに行く事になった。

 

 そこで夢は終わった。

水飲ませてやりたかったな・・・顔拭いてやりたかったな・・・。

 

 目覚めても 私がお姫様抱っこして歩けた程 母の体が軽かった事だけリアルに残っていた。

 

 

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2019年7月10日 (水)

さくらんぼの思い出

 母はさくらんぼが好きだった。

「年に一度の贅沢」と言いながら、近所のスーパーに頼んで 毎年 さくらんぼを仕入れてもらってた。(私がネット注文を知る前)

当時 一箱8000円くらいだったと記憶してる。 赤いさくらんぼが隙間無くきちんと並んでて 見てるだけで綺麗だった。

もちろん 母一人で食べきれるわけもなく、私がご相伴に預かり・・・そして たくさん貰って帰る(笑

 

 グループホームに入所してからも 母にさくらんぼを届けた。

 母が さくらんぼを認識して「美味しいねぇ」と食べた最後はいつだったんだろう?

 私の記憶には さくらんぼの種を出す事が不可能になってる母の為に種を外したものの『これじゃ さくらんぼって感じしないなぁ・・・』と思った事が残ってる。

 去年はもう種を外しただけじゃなく、小さなさくらんぼをさらに小さく切って『これじゃ私が見ても、食べても さくらんぼって認識できないわ』の状態だった。

 仏壇にさくらんぼを供えて「お母さん 今年もさくらんぼ食べてるよ」と手を合わせる。

 

 ジャニー喜多川さんの死去で 所属タレントが『3週間あったお陰で ゆっくりお別れできた』とコメントしているのを見た。

施設入所後の母の5年間は、私がゆっくりお別れする為の時間だったんだなぁ・・・と実感する。

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 意思の疎通ができなくなってからも 私が食べさせるおやつ、気に入った時は 飲み込んでから『もっとちょうだい』と ひな鳥のように口を開けたなぁ・・・可愛かったなぁ。
 

 

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2019年6月 5日 (水)

愛しい人⑤「捨てられないの~」

 私が何事も「捨てられない」性質だというのは これまでもブログに書いてきました。

 

 母の荷物を狭い我が家に運び入れて、何日もかけて片づけながら・・・あぁ やっぱり捨てられない・・・という今日のブログで『愛しい人』はおしまいです。

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 この子は めめちゃん。

以前 何かで認知症のお年寄りが赤ちゃんの人形を大事に抱っこしているのを見て、母にも抱っこさせたいと思って購入した。

退所する時「もしユニットで使ってくださるのなら置いていきます」と いくつかの物を提案した中でお断りされたもの。

母が抱っこしているのを見て意地悪言った利用者さんもいらしたようだし(亡くなった母にお別れを言いに来てくれた利用者さんが「こんな人形 捨てやぁって 私 言ったんだわ」って泣かれた。母は聴こえて無いから良かったけど、もし聴こえてたら傷ついてたよね)『母桃さんが抱っこしてた』記憶がある利用者さんは 受け入れられないかもね。

 今 寝室の入り口に仮置きしてある整理箪笥の上に座らせてある。そこを通る度に「めめちゃん!」と呼び、顔や手足に触れる。

「めめちゃん、お母さんの横にずっと居てくれてありがとうね」

「お母さん どんな夢みてたかな。めめちゃんは知ってた?」

「お母さんと どんな話してた?」

 

 グループホームから特養へ転居した時 慌ただしさの中で袋に入れたままだった母のバッグ。

服装に合わせてバッグもたくさん持っていたのに、認知症が始まった頃から いつも同じバッグを持つように。

その中の財布には、2003円が。

グループホームでは、職員さんが時々 喫茶店へ連れてってくれるので、すぐに使える数千円も 私が定期的に補填していた。

その一部と思われる千円札も 荷物の二か所から出て来た。

「ゆうこにお小遣い! 夫桃さんと何か美味しい物食べてらっしゃい」と 得意げな笑顔の母の声が聴こえた。

元気だった頃 通っていた実家の近くの喫茶店のコーヒーチケットと一緒に 尊厳死協会の登録カードも。 あぁ、そうだった! 母は尊厳死も望んでたんだった。進んだ考えを持ち 行動に移せる母だったなぁ。

側に居る私に迷惑をかけないように・・・母の根源にあるのは これだった。

お母さん ほんと すごいよ。

 

 新聞に掲載された『難病の子どもが渡米して手術をする為の募金』の記事は切り取って すぐに銀行や郵便局から募金する母だった。

募金を終えると記事は仏壇に置いて 毎日 手術の成功を祈っていた。 

私が二十歳で指定難病を発病したから『難病の子ども』は他人事では無かったんだよね。

『〇〇ちゃん募金 △△円』のメモも財布の中にあった。

 

 

 2008年頃から 難聴の母の為にノートテイクするようになり、書いた紙が20センチくらいの高さになった時 思い切って捨てた。

この3年は もうノートテイクさえ読めなくなっていたから、私も書かなくなったけれど、少し前に書いたものが溜まっていた。

それを読むと 時系列が崩壊した母とのとんちんかんな会話がよみがえってくる。

 

 グループホームに入所する時 甥っ子(母にとっては孫)と母のツーショット写真を写真立てに入れて用意した。 それはそのまま特養にも持って行き、タンスの上に置いていた。

 写真立てを拭いて裏側を見て驚く。

『おはよう ばあばです。孫桃くん』たどたどしい文字。 孫桃の名前の漢字も一字違ってる。 自分の事は「おばあちゃん」と言い「ばあば」なんて一度も言わなかったのに。

私のノートテイク用のペンが隣にあったから 思わず書いちゃったんだね。

あの頃は まだ文字も書けたんだった。

 

 グループホームでは、毎月『メイクアップ教室』があり、化粧品メーカーの女性たちが華やかに賑やかに 肌のお手入れからメイクまでを指導してくれた。

 メイク後には、季節ごとの背景シートの前で写真撮影も。

ラミネート加工された写真の初めの頃は笑顔でピースサインもしてたのが、2015年半ばから だんだん表情が無くなってる。

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 写真は、母用にブレンドしたインスタントコーヒー。 元々 甘いコーヒーが好きな母は 家では牛乳にインスタントコーヒーを溶いてカフェオレを作っていた。

 支援員さんに それを頼むのは申し訳なかったので、私が『インスタントコーヒー・グラニュー糖・粉末クリーム』を混ぜて作った物を定期的に継ぎ足してた。(真ん中の瓶)

右奥は 家でブレンドしたものを入れて持って行く容器。 奥はグラニュー糖を加えたミルクティ。

これらは もったいなくて捨てられないよねぇ~。

って事で 私がせっせと飲んでます。 甘い甘~い。

 

 母の服は お洒落で高価な物は義母に着てもらう事にした。

グループホーム・特養では 全自動洗濯機と乾燥機に耐えられる安価な物を買い足してた。 下着も靴下も その度に 一つ一つ 私が名前を書いたなぁ。

 洗濯でヨレヨレになった下着やトップスは たくさん捨てた。 

この2週間、大きなゴミ袋 いくつ出しただろう。

 

 それでも まだ 捨てられない物がいっぱい残ってる。

 

 

 今日も アルバムからの2枚をご覧ください。

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 白黒写真しか見た事が無いので、このスカートが黄色い柄だったと思うのは私の記憶なんでしょうね。

もちろん母が端切れを買って縫ってくれたもの。

白いブラウスは 還暦になった私が まだ大好きなパフスリーブ。

「こ~んなに ちっちゃくってね、ミシンがかけられないから、袖だけ お母さん手縫いしたんだよ」と 写真見ながら いつも母が説明してくれた。

 私が子供を産めたら、きっと母は孫にたくさんの洋服を縫ってくれただろうなぁ・・・認知症も発症しなかったかもしれない。

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 伊勢湾台風の被災地だった南区から 3年後 中区へ引っ越す時の写真。

丸いバッグは赤だったと思う。向こう側には黒いアップリケみたいな模様があったように思う。

 

 ひとまず「愛しい人」は 終わりますが この先も 母の事を思い出したら何か書くと思います。

 

 

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2019年5月31日 (金)

愛しい人➃「お出かけの装い」

 母が息を引き取ってから「しばらくお二人で」と 支援員さん達が退室してから数分後・・・数十分後なのか、看護師さんと支援員さんが「お体きれいにしましょう」と ポットのお湯とタオルを持って来てくれた。

 湯灌だね。

 まず看護師さんが 母の口の中を綺麗にしてくれる。

「母桃さん、これお嫌だったんですよねぇ」 うんうん、歯科衛生士さんが定期的にケアに来てくれてたんだけど、母には何をされているのか理解できないから、無理やり口を開けられて、何か突っ込まれてぐりぐりされて嫌でしか無かったよね。

 何も食べていない口腔内は綺麗だった。最後に固形物を食べたのはいつだったんだろう・・・そんな事を思っては涙ぐんだ。

続いて、看護師さん・支援員さん・私の3人がかりで温かいタオルで母の体を拭く。

目を閉じたまま されるがままの母は、昨日までと何も変わってない。

 でも 私が最後に入浴介助のお手伝いさせてもらった時よりも 体はさらに痩せ細ってた。 あぁ骨格標本って こういう形だよねぇ・・・と思った。 

 介護ショーツの中のパッドは、綺麗な茶色の下痢状の便で汚れていた。

ああ、こんな綺麗なうんち出たんだ。何も食べてないのに・・・。

看護師さんが肛門に指を入れて「残ってるのを掻き出しますね」 ありがとうございます(涙)

「腫瘍があるから、指が入らないんです・・・それもすごく硬いです」

あぁ・・・本当に腫瘍が陣取ってたんだ・・・。

認知障碍が無ければ、痛い・お腹が張る・苦しいってうったえもあったんだろうなぁ。

眠ってるとしか見えなかった母・・・苦痛を一度も聞かされなかった私は本当に幸せだ。

 Mサイズの紙おむつはぶかぶかだった。 その上からロングショーツを穿かせた。 レースのついた肌シャツを着せ「娘さんがお気に入りの服を用意されてるって聞いてたんですけど」

はいはい^^ これなんですよ^^

 2枚の候補のうちの 水玉模様のワンピースを最後に決めた。

「これ 袖がもっと長かったのを母が自分で短くリメークしたんです」

グループホームに入所した頃は、母はまだ自分でストッキングも穿き、ワンピースもスカートも着ていた。

でも2015年以降はズボンしか穿いてない。

母のワンピース姿を見るのは久しぶり。

「わあ!可愛いですねーー!」

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看護師さんが思わず笑みをこぼす程 ワンピースを着た母は可愛らしかった。

この写真は、友人達に母の逝去を知らせた時、一緒に見てもらった。(顔部分もトリミング無しで)

よくよく後で見ると、亡くなった直後の写真よりも 左目が少しつり上がってる。 口腔内ケアの時 嫌がったのかな。

ぷっくり白くむくんで可愛い足には 水色のフリルソックス(足首にゴムが食い込まないように探したデザイン)を穿かせた。

 

 その後、他の利用者さん達や、隣のユニットの支援員さん達がお別れに来てくれる度に

「まあ!綺麗!」

「母桃さん お洒落な方だったんですねぇ!」

・・・口紅を塗ってやりたかった。 私 普段の外出の時 化粧直しする事はほぼ無いので バッグに口紅さえ持ってないのよね・・・。

 

 特養に入ってからの3年弱の間には 『今日は穏やかな顔してるな』と思った日には写真を撮った。

花柄の布団にくるまれて眠る母が可愛くて撮った写真を従姉に送信した時は「これ死んでないから」と注釈もつけて。

『死んでない』写真と ほとんど変わらない動かない母。

 

 母を送った日には、写真をたくさん撮って 今も 毎日 何度も何度も見ている。

1年前の『死んでない』写真よりも 亡くなった母は『これが本当のお母さんの顔だ』と思える。

 

 愛しい人①で書いたように、大学病院へ搬送されるまでの5時間弱、私は お出かけ服に着替えた母と一緒に過ごした。

静かで優しく少し切ない幸せな時間だった。

 

 さて、候補だった2枚のうちの1枚は・・・

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私の中で「一番 おかあさんらしい服」

これ 2人でウインドーショッピングしてる時に見つけたんだよね。共布のベルトが付いてたけど、母は木の葉が繋がったデザインのメタルチェーンをしてた。

「くるみ釦とループがいいでしょ。襟の形もお母さん 好きなんだわ」

そうだったよねぇ。 くるみ釦の良さは 私も近頃すごく感じる。

献体に預けた服は数年後、遺骨と一緒に帰ってくる。 でも このワンピースは ずっと手元に置いておきたかったんだ。

「おかあさん・・・」

家でワンピースを抱きしめてみた。

 

 私が着たいけど、おそらく 今の私のボディはこの中に入りきらない・・・。

 

 

 古いアルバムの中から見つけた写真もご覧ください。

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多分 幼稚園の遠足。

弟と私が着てる服は 全部 母の手作り。

遠足の敷物(レジャーシートなんて呼び方 無かった)の上でさえ 『お母さん座りかお姉さん座り』の昭和の女性。

子供達の成長が何よりの楽しみで生き甲斐だったよね。

 

 おかあさん 大好き。

 

 

 

 

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2019年5月23日 (木)

愛しい人➂「母の段取り」

 

【5月17日 金】

 菩提寺で密葬をお願いした。

普段の本堂とは別の場所に設えられた立派な祭壇。 戒名もいただいた。

夫と二人だけの葬送になるはずだった。

そしたらね、普段から親しく声をかけてくださる信徒さんが3人 それぞれの用事でいらしてて、一緒に参列してくださることに。

 読経・焼香の後、その中のMさんが「母桃さんって名前を見て どなただったかなぁ~と思ってたら、ご住職さまが 花桃さんのお母さんですよっておっしゃって、ああ!と。お会いした事あるもんね。是非 一緒に送らせてくださいってお願いしたの」

 あ~~~! そうだった!!

私 母がグループホームに入所してる時 ここへ連れて来た事あったわ。

まだ外部の人には ちゃんと挨拶できる程度の認知症だった。 着てた服も覚えてるのに、なぜ連れて来たのかは忘れた。

そこで、私のノートテイクを通してMさんとお話したんだった。

あの時の事が こうして繋がったんだ・・・お母さん すごいね。

 

 午後からは、この季節の外出が負担になる私の為に 夫が「運転手をする」と言ってくれて、市役所などの手続きに走り回った。

何しろ、母の印鑑などは実家にあるので、何も持たない私が一つ手続きをするだけで 余分な手間がかかる。

年金支給の停止が一番気がかりで『不正受給』にならないように・・・と焦る。

窓口で相談しているうちに死亡届さえ出せば自動的に停止はされることがわかった。それ以外に派生してくるいくつかは 連絡がついた弟が今後はしてくれるでしょう。

あちこちに問い合わせ、今できる限りの事を済ませ、書類ができるまで40分かかると聞いて、その間に母の居たホームへ。

運転手が居てくれて助かった!

 表札の無くなった『母の居た部屋』から最後の荷物を運び出し、支援員さん達に挨拶をし、ホームの写真を撮り、再び 市役所へ。

「今日できる事は これで終わった」

5月の風に吹かれてキラキラと輝く街路樹を見ながら帰る。

ちゃんと送れたんだなぁ・・・感慨にふける。

 母の所へ行く時に いつもおやつを買ったすスーパーで 夕飯の買い物をする。

数ヶ月前までは ヤクルトを一週間分と、母が食べやすい小さめのパンや塩味のせんべいなど、あれこれ考えながら選んでたなぁ・・・食べられなくなってからは「好きな物を何でも良いので召し上がっていただきましょう」となって、海苔巻きやお惣菜も買った。この3週間は パンが止められ、ヤクルトも止められ・・・だった。

 そんな事を思い出して一瞬 涙ぐんだけれど、すぐに消えた。

ああ、もうそんな心配しなくていいんだ・・・もう毎週 ここで買い物して母のホームへ行かなくていいんだ・・・。

解放感だった。

助手席で 流れていく夕方の景色を見ながら饒舌になっていた。

 

 もう何年も『しわくちゃの赤ちゃん』の母しか見てなかったけれど、最後に『しっかり者で気配りの人』だった母を見せてくれた事に気づく。

 私にとって最適なタイミングで 母は命を終えてくれた。

「私の居ない時に逝かないでよ」も守ってくれた。

もう一つ・・・19日に千葉へサッカー観戦に行く予定をたてていた。

余命2~3ヶ月と言われたので、4月末にはお別れなんだと思っていた。

それがGWも過ぎ、容態は悪化していく、19日は近づいてくる。

14日 母の顔の横にくっついて過ごす時間の中で「おかあさん・・・千葉 行っちゃだめ? ・・・行かせて?」と思わずつぶやいてしまったんだ私。

それは『私が帰ってくるまでは頑張って』の気持ちもあったけれど・・・。

あの日 帰宅してから『次に会いに行く18(土)に 母がまだ存命なら その日の帰りに新幹線指定席をキャンセルしよう。そして翌日19日は 母の横で一日過ごそう!』と ふと閃いたら それまでの『行きたいけどな・・・親不孝だよね・・・でも行きたいの』の葛藤がきれいに消えた。

 

 15日、電話があったのはお昼12時過ぎ。 私が一番活動的な時間帯。午前10時だったら、アヒル寝しててスマホの着信には気づかなかった。

 息を引き取ってから、献体の為に順繰りに時間が遅れて行ったのも私には幸せな時間だった。

医師がすぐに死亡診断書を書いてくれてしまったら、アイバンクも遺体搬送ももっと早かった。

健康診断に出かけなければ行けなかったお医者さんに感謝!

 霊柩車に母を乗せるまでの5時間、母と私は 次々に訪れる支援員さん達と話をし、優しい時間を共有でき、大学病院とやり取りをしながら、ベッドの母に触れ、花に囲まれた部屋で母とゆっくり過ごせた。

 大好きなワンピースを着た母を長時間 見ていられた。

 

 母が献体を望んだのにも 私への気配りがあった。

 父も私も 病院にはお世話になっていて、我が家では病院は感謝の対象、身近で信頼できる場所。

母は父が亡くなった時 献眼したのを機に「私もする」と 自分の死後の献眼と献体も申し込んだ。 臓器提供カードも。

親族の同意は私が書いたけれど、内心『最終的には私の判断でしないかもしれない』と思っていた。

 頭も体も元気だった頃の母は 不老会(献体)から定期的に届く冊子を私に見せては「ゆうこ 絶対お願いだよ」と。

「わかったわかった」

「献体して医学に役立つだけじゃなくて、ゆうこも葬儀や告別式しなくていいから楽なんだよ。お婆さんの告別式なんて 近所の人たちが義理で来てくれるだけで、お母さんは そんなのは必要ないから。葬儀のあとのお付き合いだって大変だし。お寺でお経あげてくれれば それが一番だからね」

 その通りだった。

16・17・18日 手続きや挨拶や片付けはあったけれど、本来なら ここに葬儀告別式もあったんだよね。 

まだそれほど暑くもなく 私が動けるギリギリの季節ではあったけれど、睡眠不足の身で葬儀告別式も気力でやっただろうな。 そこは やりきっても疲労は蓄積されたはず。

 お母さん さすがだわ! そこまで段取りしてくれて。

 風に吹かれながら 少し泣いて片付けをして・・・慌ただしさの無い3日間 ありがたかった。

 

「お母さん 行かせてくれてありがとう。行って来ます」仏壇の遺髪にお礼を言い、19・20日は千葉へ。(4時キックオフは日帰り可能だけれど、車椅子の私はタクシーがつかまらないと新幹線に間に合わない可能性があるのでホテル泊)

 

 帰宅した時 私は すっかり元気になっていた。

夫にそう言うと「その為にも行くといいと 僕は思ってましたよ」

夫にも感謝。

「千葉へ行かせて」と 昏睡の母に頼んだ親不孝娘に「しょうがないねぇ・・・いい歳してぇ・・・行ってらっしゃい」と 呆れて笑いながら、母はその時 幕引きの時刻を決定したのかもしれない。

1日ずれてたら 私の体力も気持ちも回復不完全で、行けなかった。

 お母さん ありがと! 

 

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2019年5月21日 (火)

愛しい人②「母の居た部屋で」

 

 17日にお寺に遺髪を持っていって弔い、戒名もつけていただいた。

 そのお陰か、私は もう泣いてない。

年老いた母を送って後悔無く「ああ、これで良かったんだ」と思えるように。

 

 ただ 自分の記録として残したいので、もうしばらく『愛しい人』ブログにお付き合いください。

 

【5月16日(水)】

 母と別れて帰宅した夜、寝付けなかった。 3時半まで何度も寝返りをうち、母の事を思い出し、泣き、起き上がって また母の事を考えて泣き、ベランダに出て空を見て泣き・・・。

 5時半 目覚ましが鳴る前に目覚めてしまった。

 夫が この日の午後、荷物を少し取りに行ってくれることになっていた。

「君は絶対に無理はしないように」と珍しく強い口調で。

うん。寝てないし、無理したくてもできないもん。

 

 夫を送り出したら しっかり寝るつもりだった。

・・・それがね、母のタオルケットなどもあり たくさんの洗濯物を干して さあ寝るぞ! とベッドに横になったのに また次から次へと母の事を思ってしまって、泣けて、動悸がして、頭が冴えてしまう。

「おかあさぁ~ん、眠れな~い。あぁ~~~ん」と声を出して泣いて起き上がった。

眠れないなら、夫が取りに来てくれる荷物 少しでも分かりやすいようにまとめておこう!

それよりも、母の居た部屋に行きたかった。

 慎重に運転して施設へ。

表札はまだかけられたまま。 入所の時 家族に表札用の板が渡され、私が書いたもの。 マジックペンなどで ささっと書いた表札が多い中で、内心ちょっと自慢の『花桃入魂の表札』

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 数年前の母なら「娘が書いたんだわぁ」と それも自慢しただろうけれど、2年11か月の間、母はこの表札を認識した事なかっただろうな・・・。

 大量の母の持ち物・・・私が持ち込んだんだけど、こんなにあったのかぁ~。

窓を開け放ち、風を入れながらの作業。 汗がぽたぽた落ちる。 ちゃんと水分補給のペットボトルも持って行った。

昨日の今頃 まだここで母は生きていたんだ・・そう思うだけで また泣ける。

昨日の午後、ここにおめかしのワンピースを着て もう二度と動く事の無い母は横たわっていたんだ・・・。

支援員さんが「水分摂ってくださいね」と お茶を淹れてきてくれる。

 作業の疲れを感じて 母のベッドに寝てみた。

母はどんな気持ちで この天井を見ていたんだろう。 3秒前の事も忘れるから、刹那の想いは続かなかったとは思うけど。

 看取り体勢になってからベッドの位置を変えてくれた事で、窓からの景色もよく見える。

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窓いっぱいの空・・・薫風に輝いている。

 2016年6月に入所したので、5月の空をここで3回見てる計算になるけれど、この季節のこんな感じの空を 母はちゃんと見ただろうか。

 4年ほど前までの母だったら、認知症があっても「空がきれいだね」くらいの会話はできた。

それくらいの認知症で、ここに暮らしてたら気持ち良くて幸せで楽しかっただろうな。

グループホームでも 入所間もない頃は「自分の家があるのに なんでここに居なきゃいけないの?」「もう帰るよ」と 何度も荷物をまとめたりしたけれど、途中からは家を忘れ、そこが自分の住まいになっていた。

 でも介護度がどんどん上がり、特養に転居した時は もう何もわからなくなってた。

 真新しい木の香りのする建物や 山の別荘のようにも思える広々としたリビング・・・私は『こんな所で暮らせたら幸せだなぁ~』と 嬉しくなったっけ。 

 そんな事も次々と思い出して涙があふれて来る。

お母さん・・・もう居ないんだ。

昨日は居たのに・・・もう居ないんだ。

お母さん・・・お母さん・・・この言葉を口にするだけで 愛しさがこみあげてくる。

 

 しばらく泣くと 黙々と作業を再開。 夢中でやってて、何か出てくると それを見て また涙。

 なんとか形にできたところで ふと思い立って 施設の近くに住むOちゃんに連絡する。

タイミング悪く外出先にいたOちゃんは 用事を済ませて飛んで来てくれてランチに付き合ってくれた。

母を送った話をし、泣き、Oちゃんももらい泣きをして。

 高校時代から母と会ってるOちゃんなので「ゆうこのお母さん」をよく知っていてくれる。

泣いて少し笑って食べて「ゆうこは まず寝ないとね! 絶対に慎重に運転して帰ってよ。すぐに寝るんだよ」

 

 うん・・・泣きたかったんだ。 誰かにも一緒に泣いて欲しかったんだ。

 

 

 

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2019年5月18日 (土)

愛しい人①「よかった・・・」

 令和元年5月15日 午後1時45分 母が息を引き取りました。

 

 10年間にわたる『認知症の母の介護(後半5年間は施設のお世話に)』が終わりました。

 『いつ亡くなっても 私は後悔ない』と思っていたし、今年になってからは癌が見つかって余命宣告も受け 覚悟もできてた。

 周りでも年老いた親御さんの逝去には『本人も家族もお疲れさまでしたね。大往生ですね』という空気だし、私も人様のそういう話を聞いても『悲しい・寂しいだろうな』とも思わなかった。

 でも予想外だった。 私 母が愛しくて恋しくて会いたくて会いたくて・・・いっぱい泣きました。

 

 しばらく 母との思い出語りをさせてください。

 

【5月14日(火)】

いつものように母のところへ。

花で囲まれたベッド、カサブランカの香りが充満する部屋。

コンビニで買って行ったカフェオレを飲みながら 母の写真を撮ったり、花の世話をしたり、静かな穏やかな時間。

ベッドサイドで母に寄り添い、いつものように手を握ったり 足をさすったり、頬を撫でたり。

母はもう2年くらい 唇をぎゅっとかみしめていた。 抜けた前歯の隙間から吸い込むのか 唇の一部がへこんでいた。

それが この時はそうじゃなかった。 普通の唇の形。

顔を近づけると 母の鼻から漏れる呼気が匂う。 たまに口臭があったりもしたけれど、鼻からの匂いは初めて。 唇をかみしめていないのも もしかしたら唇の隙間から時々 呼吸してるのかも。

首や肩が呼吸の度に上下する。 小刻みになったり深くなったり。 

これ良くない兆候だよね。

体の向きや頭の高さを変えて、呼吸が落ち着いたように見えた。

夕方になって後ろ髪引かれる思いで部屋を出る。

この所 母にはいつも「お母さん 逝く時は私が居る時にしてね。私が居ない時に逝かないでよ。絶対だよ。約束だよ」と言い聞かせている。

もちろん聴こえてないだろうし、反応も無い。

 

【5月15日(水)】

昼過ぎに施設の看護師さんから電話。

「母桃さん 時々 うー・・・あー・・・とおっしゃってるので、娘さんが来てくださると安心するかもしれません」

穏やかな口調だったので『うわ言でも聞けるなら嬉しいな』くらいの気持ちで出かけた。

途中から胸騒ぎがし始めて 信号で止まる度に 早く早く!と足踏みしたい思い。

施設に着いて 小走りもできないこの体・・・ここで転んではいけないと用心しながらユニットに行くと 入り口で会った支援員さんが「母桃さん、目をパッチリ開けてらっしゃいますよ」と笑顔で。

あ、持ち直したんだ、良かった。

支援員さんの笑顔が 私を過剰な不安にさせないようにとの配慮だったと気づくのは すぐ後。

部屋の戸を開けると・・・5~6人の支援員さん(看護師さんも)が取り囲んだベッドの母は目を見開いていた。 まばたきもせず見開いた目は異様だった。 これはただ事じゃない。

「お母さん!」

母の手を取り、肩を抱き、頭を撫でる。

「お母さん! ゆうこ来たよ! 安心して!」

この瞬間、看護師さんの『安心するかもしれません』の電話の本当の意味を悟ったような気がした。

「お母さん! ゆうこ来たから もう安心していいよ!」安心して逝っていいよ・・・なんだと 心の叫び。

頭を右側に向けてる事が多い母、その顔に自分の顔を近づける。 頬をくっつける。

見開いていた母の目の異様な力が無くなり、目が私を見たと思った。

「お母さん! ゆうこ! わかる?」 分かってほしくて必死で呼んだ。

母の口が開く・・・開いた口を見るの 久しぶり。

「う・・・あ・・・」

「うん、ゆうこ来たからね!」

「う・・・」

「お母さん! ゆうこって呼んで! お母さん!」

母が目を閉じた。

あ・・・と思って 頸動脈に手を触れると脈動が感じられる。

『死なないで・頑張って』とは思わない。 

ベッドの周りの皆も「母桃さん 娘さん みえましたよ」「よかったですね」と涙声で話しかけてくれる。

義父が最期は深い息を吐いたので それが来ないうちはまだ大丈夫と思い込んでた。

「お母さん! ゆうこって呼んで!」 最期に呼んでもらえるかもしれないと ずっと思ってた。

握った手の感触も変化なし。

「お母さん ゆうこ来たから安心して」

この二ヶ月くらいは、ほとんど目を閉じて動かない母しか見ていないので、この状態が異常には思えない。

左手で手を握り、右手で顔を撫でまわし・・・ふと気づいて もう一度 頸動脈を確認する。

脈動が感じられない。

「止まったみたい・・・」看護師さんを見る。

看護師さんが聴診器を当てて、私を見て深く頷いた。

最初に出た言葉は「お母さん 良かったねぇ~!」

もう二度と動かない母の体を撫でまわしながら「お母さん 間に合って良かった」「待っててくれたんだね」「本当に良かった」「こんなに大勢に見守られて 本当に良かった」と涙と洟でぐちゃぐちゃになりながらつぶやく。

「もうすぐ娘さんみえますからねって言ってたんですよ」

「待ってみえたんですねぇ」

待ってる人に会って息絶えるのは、ドラマでよくみるけど 本当にあるんだ。

『娘さんに会わせたい』との皆の気持ちが 母の心臓を動かし続けてくれたんだとも思えた。

そういう人たちに恵まれて、良い施設で最期を迎えられて「お母さん 良かったねぇ!」「お母さん よかった・・・」

全然 苦しまなかった。

手を握って顔を見つめて撫でまわしていた私が いつこと切れたのか分からないくらい穏やかに静かに逝ったことも「お母さん 本当によかったよぉ」

写真を撮った。 後で見ると この最初の写真が半眼半口で 一番穏やかで笑っているように見える。

死に際には、特別な脳内物質が出て、本人は快感さえ感じていると 事前にいただいた「看取りをする家族への冊子」にあった。

きっとこれなんだね。

私が到着してから10分もたってないと思う。

後で看護師さんに聞くと、私が気づくより少し早く「これが最後の呼吸」だと思ったそう。 私 呼吸が止まっても気づかずに「安心して(逝って)いいよ」と呼びかけてたんだね。

 

 目を真っ赤にした支援員さんや看護師さん達が 母にお別れを言い「しばらく二人でゆっくりしてください」と退室。

花に囲まれた部屋で母と二人。 ずっとこのまま ここに居たいと思った。

しなくてはいけない事が これからたくさんあるけれど、今は少し このままで。

「お母さん よかったね・・・よかったね」何度もつぶやきながら 母を撫でる。

 

<1時半>

 嘱託医が到着し、聴診器を当てたり目に光を当てたりして最後の確認をし「1時45分 ご臨終です」

あ、そうなんだ。 本当に息を引き取ったのは もう少し前だったけど、医師の確認した時刻が死亡時刻になるんだ。

 ここから私の役目が始まる。 冷静に献体の連絡をする。

先ほど死亡確認をしてくれた医師が別の仕事で出かけなければならず、死亡診断書を書けるのは3時過ぎだと言われた。

献体の手続きは、死亡診断書が出ないと始められず、死亡した事だけ伝えて診断書を待つことに。

 ここから1時間半 あっと言う間だった。

 母を見つめて泣いて、冷静にアイバンクへも連絡をし、また泣いて。

お母さんの願いだったもんね、私 ちゃんと遂行するよ。

 別のユニットへ異動になってた支援員さんも 連絡を受けて来てくれる。 すごいネットワーク。

「母桃さ~ん、ありがとうございました~」と泣いてくれる。

「お母さん こちらこそ ありがとうございましただよね。お母さん ずっと言えなかったもんね。私が代わりに言ってあるからね」

その間にも 不老会(献体)やアイバンクからの電話が入る。

 滞りなく進められるようにメモをとる。 泣いていた目が乾いている。

夫にもやっと連絡し、義母を連れて来てくれることに。

 

 ユニットの他の利用者さんも順番に来てくれた。

母はコミュニケーションは全くとれなくなってたけれど、しっかりされてる方は多くて、顔をゆがめて泣いてくださった。

ああ、わかるんだ・・・と そんな所で驚く。

 

<3時20分>

 死亡診断書が届き、不老会経由で大学病院へ連絡する。 

アイバンクに角膜を提供するのが先。 アイバンクから依頼を受けて来てくれる眼科の医師は5時半到着予定。

献体は その後になるので、順繰りに時間が遅れていく。

 

<5時20分>

 夫と義母が到着し、涙の別れ。

タッチの差で、眼科医が到着。 ほんの少しずれていたら、眼球のある母には会ってもらえないところだった。(もちろん義眼を入れて外見は変わらないようにしてくれる)

 

<6時20分>

 不老会からの依頼で葬儀社から霊柩車が到着する。

白い綺麗な模様の布に包まれて母がユニットを出ていく。

 施設の玄関には 職員さん達がずらりと並んで送ってくれた。皆さん もう帰宅する時刻だったかもしれないのに。

「お母さん 本当に良かったね。ここから お母さん 最後の役目だね。行ってらっしゃい」

 

4時上がりの支援員さんが 一旦 家に帰って用事を済ませてから 見送りに来たけれど間に合わなかったとの話も後日聞いた。

この日 休みだった支援員さんも連絡を受けて駆け付けてくれた。

 

<7時前>

 母の居なくなった部屋、少しでも片付けたいけれど、私が暗くなると運転できないので「今日はここまで」と夫が言い、切り上げる。

母の居た部屋・・・ずっと居たかった。

 夫は義母を送り、私は自分の車で帰る。

「お母さんが亡くなりましたぁーー」叫びたいような気持ちと 誰にも言いたくないような気持ち。 

「お母さん・・・」と声を出す度に泣いて。

 

 お母さんに会いたい。

お母さんが恋しい。会いたいよ。お母さん・・・お母さん・・・。

「お母さん ありがとう」は、私も母も昔から いっぱい言い合っているので、今更 あらためて伝える必要も無い。

ただただ、お母さんが恋しいよ。 ゆうこって呼んでほしいよ。

 

 この時の 私の心は これでいっぱいでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年5月13日 (月)

花に囲まれて

 「生花のお世話をします」と 火曜日の帰宅後 支援員さんが電話をくれてから 土曜日の午後、初めての訪問。

すでに事務所の女性が預り金から買ってくれた花も飾られている。 

私もカサブランカを買って行った。

一般的には療養中のお見舞いに香りの強い花は禁忌なんだけれど、今の母には「香りも良い刺激」だとの事。

『母桃さんらしく生活できるように、母桃さんが喜ばれる事をみんなでしていきましょう』が共通認識。

 

 母が寝たまま花や窓を眺められるように また家具の配置を変えたと聞いていたので 見るのが楽しみでもあった。

テーブルには 入所当時に私が準備した造花と共に、いくつかの生花が。

 私 花の世話をするのは大好きなので「おかあさ~ん、花の水換えるね~」「これは こっちの花瓶がいいよね~」と声をかけながら 花たちを触る。

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 窓からは5月の風が入って気持ちいい。

 自分用に持って行ったカフェオレを飲みながら 支援員さん達が書いてくれる「母桃さんの記録」を読む。

利用者の一人でしかない母の事を これだけ細かく気にかけてくれて「おかあさん・・・ありがたいね」

手を握っても無反応の母には もう慣れっこ。

 

 ユニットリーダーさんが「今日 母桃さん お風呂に入っていただこうと思ってるんですが、ゆうこさんもいかがですか?」

介助のお手伝いをさせてもらう事にした。

『母と娘のふれあいの思い出づくり』なんだよね。

シャンプーをした。

その姿を施設のカメラで撮ってくれる。

ちなみに・・・母は朝 起きた時に言葉を発する事が多い(多かった)ので、その瞬間の動画を撮る為に 母の部屋にカメラが置いてある。

 脱衣室のベッドに寝かせた母を 看護師さん二人と支援員さんと私4人がかりで拭き上げ ボディクリームを塗る。

「おかあさん、エステサロンみたいだね。これは 3万円頂きますのコースだよ」皆で笑いながら 母に新しいパジャマを着せる。

やせ細った体、お腹だけ硬い。

 

 花でいっぱいの部屋に戻ると 窓からの風が更に気持ちいい。

風呂上がりの水分補給も 今の母には苦痛を増すという事で、スポーツドリンクをスポンジに含ませて 口元を濡らすだけ。

それすらも母は唇をぎゅっと閉じて拒絶の様子。

 こんなに飲まず食わずで生きてるってすごい。

 私の腸閉塞の手術後 絶飲食の時「飲みたい・食べたい」本能と戦う私は 母に牛乳を買って来てもらって「飲んでるとこ見せて」

母がゴクゴクと飲むのを見て 自分が飲んでるのを想像した。

だから「お母さん、ゆうこ飲むからね~見ててよ~」と スポーツドリンクをゴクゴク飲んで見せた。

母は目を閉じたままだけど・・・苦笑。

 

 洗いたての白い髪が風で揺れるのを撫でながら 母との色んな事を思い出す。

私に与えられた優しい幸せな時間なのかな。

切なくもあるけれど。

 

 ストローで吸い上げるのが難しくなってくるだろうからと 少し前に楽のみを買った。今はこんな可愛いデザインのもあるのね。

飲み口も2種類あって、細い方を付けると 母は飲みたい時はそれをちゅーちゅー吸う。

たった2回使っただけだったな・・・。

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 母がただ眠っているだけのように見えるのが 今は救い。

 

 明日は どんな花を買って行こう・・・ささやかな楽しみでもある。

 

 ただ・・・土曜日、今年の最高気温を更新したのを帰宅後に知り、その時はすでに体が重くて起きていられなくなってた。

入浴介助も 形ばかりのお手伝いの私には力仕事こそ無いけれど、浴室は私にとってはサウナのようなもので けっこう堪えた。

 

 あと何回 母に触れられるんだろう。

 

 

 

 

 

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