母の老い

2020年5月20日 (水)

母の一周忌

 もう一年たったんだなぁ…。

「大切なお母様を送って 寂しくなったでしょう」と寄り添ってくれる人もいるけれど、寂しさは一度も感じてない。

大好きな母と ちゃんとコミュニケーションがとれたのは、6年以上前だもの。

老人性難聴の母と要約筆記のノートテイクを駆使しながら会話はできても、認知症も進み だんだん会話が成り立たなくなったのは10年前くらいかなぁ。

 嬉しい事を報告すれば「良かったねぇ~」「さすが ゆうこ!」と顔をほころばせてくれた。他人なら『そんな事を自慢げに…』と苦笑されかねない事も 母は自分の事のように喜んでくれた。

 辛い報告をすれば、息をのんで絶句してから「がんばろ。お母さんも頑張るから」と。

母がそういう反応をしてくれなくなった頃から『お母さん』は、居なくなってたもの。

 

 認知症の進行と『老いへの抵抗』で 不条理な怒りをぶつけられて辛かった数年間を経て、母は大きな赤ちゃんになった。

施設のお世話になって 私の肉体的負担は無くなり、母との穏やかな時間を慈しむ事ができた。

 2019年年明けに大腸癌が見つかり『積極的な治療はせず、枯れていくのを静かに見守る』選択をした。

施設の支援員さん達と意思を確認しあい、同じ思いを持って介護していただけたのもありがたかった。

 

 最期の日…電話を貰って施設に行くと、支援員さん達に囲まれたベッドの上で母は目を見開いていた。 初めて見る母の顔だった。

でも苦しそうではなくて。

 ベッド脇に座って手を握り、母の顔に顔をくっつけて「おかあさん、ゆうこ来たよ。安心して(逝っていいよ)」と呼びかけると、母の眼が動いて私を見た。

本当に『私を見た』と思った。

 目を閉じて、数分後、いつ逝ったのかわからないくらい静かに 母は息をひきとった。

映画やドラマでよくみる『〇〇が来るのを待ってた』って 本当にあるんだなと思った。

支援員さん達が「母桃さん! もうすぐゆうこさん来ますからね。頑張って!」と ずっと声をかけてくれていたからだよね。

難聴でほとんど聴こえないはずの母だけれど、支援員さん達の真心がちゃんと聴こえてたんだろうな。

私の顔も名前も忘れてしまってた母なのに その時だけは「ゆうこが来るまでは死んではいけない」って思ってたんだろうな。

目を閉じたら死んでしまうからと 必死で目を見開いていたんだろうな。

 そして到着した私を見て『あ、ゆうこだ』と思ったのかどうかは分からないけど「お母さん! ゆうこ来たよ! 安心して」を聞いて、顔を見て確認したんだろうな。

 ほんとにゆうこかなぁ? と思ったかな。

 グループホームに入所時、私の事が分からなくなり始めた頃は「ほんとにゆうこ?」「ゆうこは そんな顔してない」って言われたもんね。 その頃の母の中では『ゆうこ』は、十代のままだったんだろうね。

 

 最期の時 「あ、ゆうこが来たんだ。もう死んでもいいんだね」と決めたんだと思いたい。

 

 最期の日から数日、サラサラの涙をたくさん流した。

 

 この一年、いろんな場面で『施設入所後の母』との事を思い出してた。

 

 この頃は もっと前の『頼れる母』の事を思い出すようになった。

母が今の私の年齢の頃は 今の私とは比べ物にならないくらい元気で活動的だった。

 私が二十歳で全身性エリテマトーデスを発症し、自宅療養中 2人で料理や買い物もしてたけれど、週末 早朝から仕事に出かけていた母を 私は それほど助けてなかった事に 今頃 気づく。

 自宅療養中とは言え、寝たきりだったわけじゃないんだから、週末の二日間くらいは『家事全般 私に任せて』ってすべきだったよねぇ。

 

 母が元気だった頃から『私は母に感謝してるし、その想いをちゃんと言葉でも伝えている』って自負があったけれど、もっともっと行動で示す事できたよねぇ。

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2020年3月17日 (火)

母のお役目

 母が献体をした大学病院から「令和元年度に行われた解剖学実習および手術手技実習等において解剖させていただきました」とお礼と報告の書類が届いた。

『遺骨になって戻ってくるまで長いと2~3年かかる事もある』と聞いていたので、え?もう終わったの?と あっけにとられた。

いつだったんだろう? 母の事を思わない日は無かった。 寂しいとか悲しいとかじゃなく、ただただ愛おしく切なく。

元気だった頃の母だったり、私の事もわからなくなってからの母だったり。 日常のいろんな場面で「おかあさん…」とつぶやいてた。

 母が最後のお役目を果たしている時 きっと私は仏壇の前でお参りしてたよね。・・・根拠の無い自信。

 

 愛知県アイバンクからも献眼のお礼の書面と冊子が届いた。

お母さん・・・お母さんは ずっと『誰かの為に』の人だったね。

人前に立って指揮をとるタイプではなく、縁の下の力持ちとして何でも一生懸命やる人だった。

 自身の十代の頃は継母から弟妹を守り、結婚後も弟妹に心配りをし、家庭ではつましく良妻賢母。

夫(私の父)は糖尿病→脳梗塞→心筋梗塞で55歳で逝去。思いがけず娘の私が難病を発症してからは 夫と娘のダブル介護(介護とまではいかない)の時期もあった。

 それでも泣き言も言わず、かと言って肝っ玉母ちゃんで笑ってたわけでもなく、ささやかな幸せに感謝しながら頑張る人だった。

 例えば、10個貰ったリンゴを3個おすそ分けするとしたら、綺麗な物から順に3個選ぶような人だった。

「お母さん、貰う人は10個を見てないんだから、自分ちでベスト3個を食べてもいいんじゃない? 傷んだのを3個選んであげるわけじゃないんだし」と私が言うと

「どうせあげるなら一番きれいなのがいいでしょ」と言う母だった。

 

 献体した人・献眼した人の名前と年齢の一覧表に載る母の名前が誇らしい。

お母さん、すごいね。

「ゆうこが ちゃんと手続きしてくれたからだよ」 逆に 私を誇ってくれる母の顔が浮かぶ、声が聴こえる。

それだって元気な頃から 事ある毎に「ゆうこ、お母さんが死んだら 不老会とアイバンクに忘れずに電話してよ」と刷り込んでくれてたから。

ある時は「今は うんうんと聞いてるけど、実際 その場面になったら、お母さんが解剖されるの分かってて連絡できないかも」と言う私に「死んだら ただの体なんだから、痛くもかゆくも無いんだよ。それよりも献体すれば、お葬式の手間が省けて ゆうこの体が楽なんだよ」と懇々と説いた。

 実際は 献体の連絡をしても葬儀告別式を行ってから遺体を引き取ってもらう事が可能だったんだけど。

最後の最後まで『ゆうこに負担かけないように』だったなぁ。

 

 さて、その名簿の中に『匿名 5歳』という記述があった。

それを見た瞬間 「うっ…」となり、涙声で夫に「5歳だって…」と言うと「病気の子だったかもしれないですね」と夫。

あ、そうかも。

闘病生活の中で両親は余命も承知して、短い命を精一杯生きた証として・・・誰かの役にたてようと決意したのかもしれないな。

 

 母は新聞やテレビで「難病の〇〇ちゃんが渡米して手術」なんてニュースを見ると 郵便局や銀行へわざわざ行って募金してた。

仏壇にはよく「〇〇ちゃんの手術が成功しますように」と書いた紙が置いてあった。

 

 その遺伝子を持つはずの私だけれど・・・10個のリンゴのうちの3個をおすそ分けするなら、綺麗な順に3個は自分ちで食べたいです!

しかしながら、なぜだか夫が そういう募金を 複数 継続しています。

 

 

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2019年11月 1日 (金)

母を知る人

 先日 Oちゃんが お喋りに来てくれた。

 出会ってから45年・・・店で落ち合う時は 周りの耳を気にしてできないような『恥ずかしい話・みっともない話・愚痴・悪口・ちょっと自慢』も 家だと思う存分できちゃう。

 で、どんな話をしても『それが ゆうこ☆』と聞いてくれる。

ちょっと自慢をしても「え~! すごいじゃ~~ん!」と目を見開いて喜んでくれる。 ありがたい友達。

 

 そんな話を夢中でしていて

私「お茶いれようかな。おもたせのケーキには 温めた牛乳にインスタントコーヒー・・・」

Oちゃん「砂糖無し」

私「そーそー!」

 で 支度をしていると Oちゃんが「そういえば、ゆうこのお母さんにコーヒー淹れてもらった時さぁ~」と笑いながら話し出した。

「新品のインスタントコーヒーの蓋を開けると、紙がついてるじゃん。ゆうこのお母さん そこに小さく穴が開けてあってさ~」

そうなんだよねぇ~~笑。 一時期、旧花桃家のインスタントコーヒーは 紙の蓋を取らず、小さく穴をあけて そこから振り出してた。

母の従姉が自営業の忙しい合間に飲むインスタントコーヒーを手軽に かつ 湿気らないようにと生み出した技を 母も取り入れてたのでした。

Oちゃんの笑いながらの話は続く。

「で、ゆうこのお母さんは『Oちゃ~ん うちのコーヒー こういう風なんだわ~』って言ってさぁ~」

私「ねえ、それいつ? 私 居た?」

Oちゃん「ゆうこの病院へお見舞いに行ったら、生花がダメで持って帰ったんだけど、そうだ!って思いついて お母さんとこへ持って行ったの」

 そうそう! そんな事あった。

 何度目かの入院(おそらく股関節手術の名大病院)は 生花を部屋に飾る事が禁止(雑菌の繁殖防止の為)されていて、親しい人には そう伝えて持って帰ってもらったけど、言えない相手もあって、そんな時はベッドの下に隠しておいて、次に面会に来てくれた友達に持って帰ってもらってた。

 Oちゃんも それだったんだ。 で、自分ちを通り越して 私の家まで行ってくれたんだった。多分 片道30分はかかるよね。

Oちゃん「でね ゆうこのお母さんは『花も嬉しいけどOちゃんが来てくれたのが嬉しい』って すごく喜んでくれてさ、私も帰り道 行って良かったなぁって思ったんだ」

 そうだった。

 私が結婚して 母は一人暮らしになって ご近所にもお友達は居たけれど、若い人が大好きな母は 私の友達が大好きだった。

花を届けるだけのつもりだったOちゃんに「あがって、あがって! お茶飲んでって♪」って 家に連れ込んだ(笑)んだろうなぁ。

そして「お茶って言っても インスタントコーヒーで ごめんね~」と言い、小さな穴をあけた紙の蓋をお披露目したんだね。

 

 元気だった頃の母の姿が 声が 笑った顔が 鮮明に浮かぶ。

 

 ささいな出来事が大切な思い出になった。

そして 母を知る人の そんな話を聞ける事が幸せ。

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2019年9月17日 (火)

夢の中で

 母の夢をよくみる。 これは母の生前の頃も。

実家らしき場所で 少々 老いてはいるものの 自分で歩き話せる母と夢で逢ってた。

「あ、お母さん こんなに歩けるんだ」

「あれ? お母さん ちゃんと話せるんじゃん」 毎回 そんな風に思った。

 

 母が亡くなってからも似たような夢をみる。

二日前の夢。

棚の上に母を置いて(「置いて」なのよねぇ)たのを忘れてて、慌てて見に行くと 母はちんまり体操座りしてた。

「ごめんねぇ~~~!」 急いで棚から降ろすと、母は私の両掌にのってしまうくらい小さい。

これは先夜みたドラマ「セミオトコ」が再現されてたんでしょう。

そっとそっと布団に横たえる。

「足 伸ばしていいよ~」 これは 千葉の台風被害の影響。

停電の為、エアコンをつけた車内で寝ているニュースを見て『ずっと足伸ばして眠れてないんだなぁ…』と思ったから。

続いて、母に氷を入れた水を渡す。 これも台風で被災した人たちが「冷たい飲み物が欲しい」「凍らせたスポーツドリンクが飲みたい」と言ってるのをテレビで見たから。

 自分で上体を起こした母はストローを挿してゴクゴクと飲む。

喉乾いてたよね・・・自分でちゃんと飲むくらい渇望してたんだね・・・。

愛しくて可哀相で泣けてくる。

「お母さん 慌てて飲んじゃだめだよ。ゆっくりゆっくりね」 あ、聴こえないんだった。

夢の中で私は声を出して泣いてたような気がする。

 

 あり得ない事と事実が入り混じる。

 

 夕べは、我が家の窓の外から母の呼ぶ声がする。

マンション中層階の東側の窓の下には、平屋のお家があり、そのお家の屋根の上から「ゆうこ~ 起きてるぅ~?」と 母が呼んでいる。

「起きてるよ~」と窓から顔を出す私。

 

 千葉の台風被害が私の夢の中に色濃く現れているようにも思える。

 

 母は私に何か伝えたいのかな・・・? とも思える。

 

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2019年9月 4日 (水)

おかあさん・・・

 毎週火曜日、もう母の居る特養へ行かなくていいんだ・・・と思う。

スーパーでは、毎週 母に買って行ったミニあんパンを見て もうこれも買わないんだ・・・と思う。

 撮りためた母の写真を時々 見る。

ちゃんと目を開けた最後の写真は 今年の4月20日だったなぁ。

 

 その後は 眠ってる写真ばかり・・・と思ってたけれど、眠ってるんじゃなくて しんどくて目を閉じてただけかもと 近頃 思う。

私も体に異変が起きて休日救急診療を受診する時 ドクターの質問に必死で答える以外は目を閉じてるもんね。

点滴などで少し回復してくると 目を開けて周りを見る余裕ができてくる。

 母は ずっとしんどかったんだろうなぁ。

 

 目を閉じた母も 時に綺麗な顔をしていて、そんな時は色んな角度から撮影した。

息を引き取った時、最初の写真が一番いい表情だった。

 

 母が亡くなって 寂しいとか悲しいとかは思わない。 

母が見せてくれた穏やかで幸せな臨終の姿は、私が抱いている死生観を裏切らなかった。

それまでギュッと結んでいた唇がうっすら開かれ、目も薄目を開けて周りを見ているようで、半眼半口って これなんだと感動したっけ。

私は死ぬのが怖くない。 母の最期を見送って その気持ちは更に強くなった。

 

 母は、最後まで私に安心を与えてくれたんだね。

きっと本人の体は ずっと辛かっただろうに。

 

 たくさんの母の写真を眺めていると、亡くなった直後の写真に比べて、他の写真は みんな眉間にしわがあるのが分かる。

やっぱり母はずっとしんどかったんだね。

 息をひきとって、それまでの苦痛から解放されたんだね。

ほわぁ~っとした顔。

 

 グループホーム入所時代、ホームではヤクルトを配達してもらっていた。

それまでヤクルトを飲む習慣の無かった母も喜んで飲んでいた。

特養へ転居した時、ヤクルト配達のシステムが無かったので、私が毎週 届ける事に。

10本セットを買って行くと、先週の残りが3本ある。 最初の頃は次回は5本買って帳尻を合わせていたけれど、途中から新しい10本を置いて、残っていたのは私が持ち帰る事にした。

 私にもヤクルトを飲む習慣は無く 持ち帰ったら自分で飲むしかないなぁ・・・と 無理矢理飲んでいた。

ところがね・・・だんだん美味しくなってきたのよねぇ。

 今では お風呂上がりのヤクルトが楽しみに。

この頃 スーパーで買い物をする時、自分用のヤクルトを買っています^^

 

 毎晩 ヤクルトを飲みながら「おかあさん・・・」と 心で小さく呼んでみる。

愛しさと切なさが胸にひろがる。

 

 そうそう、母のヤクルト・・・2018年年明け、母のユニットでインフルエンザが蔓延した。 支援員さんも罹患。 利用者さんも10人中7人が感染した。

 無事だった3人の中に母も居て 支援員さんが「ヤクルトのお陰かもしれないですねぇ」と言ってたなぁ。

 

 

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2019年8月17日 (土)

面影

 母の初盆。

 私が信仰している宗派では「お盆に帰ってくる」という概念は無い。

母を送ってから寂しさを感じるよりも ただただ母を 母との記憶を 毎日 感じて過ごしている。

 13日、私の毎月の内科定期診察の折、病院で『母を見た』・・・母によく似た人に会った。

 綺麗なショートカットの白髪、華奢な上半身、優しい色合いのパンツのウエストから腰のライン・・・母そのものだった。

娘さんと思しき人(私よりは一回り若そう)に手を引かれて歩く姿は ちょっと頼りなくて『あぁ、この方も認知症を患ってらっしゃるんだな』と思うと 余計に愛しくて。

 見ず知らずの人を凝視するのは失礼だけど、私の目は正面からでないと焦点が合わない。目の端で見るともなしに見るって事ができない。

見たい・・・母にそっくりなその人をもっと見たい。

 時々 視線を外しながら、体の向きを変えてまで2人の姿を追う私。

 そして、娘さんらしき人の問いかけに その方が答えるシーンに遭遇した。

『あ、こんな風にお話できるんだ!』予想外の反応になぜか嬉しくなってしまった。

ここ数年、友達とのおしゃべりの中で「母がこれこれこう言ってさぁ」「母はこう言うんだよね」などと聞くたびに『あ、皆は お母さんと こういう会話できるんだった!』と 妙に驚いたっけ。

 話せない母が 私には普通になってしまってたから。

 娘さんを信頼しきって頼ってるその方が ずっとお元気ですように…と 心で手を合わせた。

 

 母の夢も何度かみた。

 先夜の夢。

 サッカースタジアムに来てる私は 母を入り口に置いて来てしまった事に気づき 慌てて探しに行く。

長椅子に寝かされて目を閉じている母を見つけて ちょっとホッとする。

「お母さん、ここで寝てる? それとも 皆の居る所へ行く?」

母がどう答えたのか覚えてない(私の声が聴こえてたのかどうかも不明)けど『皆の居る所へ向かう』事にした私。

メインスタンドからバックスタンドへ向かわなきゃいけない。

 母は歩けないだろう・・・肩を貸しても無理そう。

・・・現実なら 杖をついた私が母を支えて歩くのすら不可能なのに、夢の中で私が選択したのは『母を歩かせるのは怖いから、私が抱っこしていこう』でした。

 母をお姫様抱っこする。

現実世界では、台所からリビングまでお盆にお茶のセットを乗せて両手で運ぶ事さえ無理なのに(苦笑)

 母は軽かった。 軽々とお姫様抱っこして 私はメインスタンドからバックスタンドへすたすたと歩いた。

亡くなった時 母の体重は30㌔そこそこだったはずだから、これくらいの軽さだったかもしれない。

 

 バックスタンドの『皆の居る所』には、私達母娘の知り合いらしい若いカップルが居たけれど、う~気が利かない。

長椅子に母を寝かせて 水を飲ませてやりたい、顔を冷たいタオルで拭いてやりたい・・・けど、彼らが全然 反応してくれないので、私がタオルを冷やす水を探しに行く事になった。

 

 そこで夢は終わった。

水飲ませてやりたかったな・・・顔拭いてやりたかったな・・・。

 

 目覚めても 私がお姫様抱っこして歩けた程 母の体が軽かった事だけリアルに残っていた。

 

 

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2019年7月10日 (水)

さくらんぼの思い出

 母はさくらんぼが好きだった。

「年に一度の贅沢」と言いながら、近所のスーパーに頼んで 毎年 さくらんぼを仕入れてもらってた。(私がネット注文を知る前)

当時 一箱8000円くらいだったと記憶してる。 赤いさくらんぼが隙間無くきちんと並んでて 見てるだけで綺麗だった。

もちろん 母一人で食べきれるわけもなく、私がご相伴に預かり・・・そして たくさん貰って帰る(笑

 

 グループホームに入所してからも 母にさくらんぼを届けた。

 母が さくらんぼを認識して「美味しいねぇ」と食べた最後はいつだったんだろう?

 私の記憶には さくらんぼの種を出す事が不可能になってる母の為に種を外したものの『これじゃ さくらんぼって感じしないなぁ・・・』と思った事が残ってる。

 去年はもう種を外しただけじゃなく、小さなさくらんぼをさらに小さく切って『これじゃ私が見ても、食べても さくらんぼって認識できないわ』の状態だった。

 仏壇にさくらんぼを供えて「お母さん 今年もさくらんぼ食べてるよ」と手を合わせる。

 

 ジャニー喜多川さんの死去で 所属タレントが『3週間あったお陰で ゆっくりお別れできた』とコメントしているのを見た。

施設入所後の母の5年間は、私がゆっくりお別れする為の時間だったんだなぁ・・・と実感する。

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 意思の疎通ができなくなってからも 私が食べさせるおやつ、気に入った時は 飲み込んでから『もっとちょうだい』と ひな鳥のように口を開けたなぁ・・・可愛かったなぁ。
 

 

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2019年6月 5日 (水)

愛しい人⑤「捨てられないの~」

 私が何事も「捨てられない」性質だというのは これまでもブログに書いてきました。

 

 母の荷物を狭い我が家に運び入れて、何日もかけて片づけながら・・・あぁ やっぱり捨てられない・・・という今日のブログで『愛しい人』はおしまいです。

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 この子は めめちゃん。

以前 何かで認知症のお年寄りが赤ちゃんの人形を大事に抱っこしているのを見て、母にも抱っこさせたいと思って購入した。

退所する時「もしユニットで使ってくださるのなら置いていきます」と いくつかの物を提案した中でお断りされたもの。

母が抱っこしているのを見て意地悪言った利用者さんもいらしたようだし(亡くなった母にお別れを言いに来てくれた利用者さんが「こんな人形 捨てやぁって 私 言ったんだわ」って泣かれた。母は聴こえて無いから良かったけど、もし聴こえてたら傷ついてたよね)『母桃さんが抱っこしてた』記憶がある利用者さんは 受け入れられないかもね。

 今 寝室の入り口に仮置きしてある整理箪笥の上に座らせてある。そこを通る度に「めめちゃん!」と呼び、顔や手足に触れる。

「めめちゃん、お母さんの横にずっと居てくれてありがとうね」

「お母さん どんな夢みてたかな。めめちゃんは知ってた?」

「お母さんと どんな話してた?」

 

 グループホームから特養へ転居した時 慌ただしさの中で袋に入れたままだった母のバッグ。

服装に合わせてバッグもたくさん持っていたのに、認知症が始まった頃から いつも同じバッグを持つように。

その中の財布には、2003円が。

グループホームでは、職員さんが時々 喫茶店へ連れてってくれるので、すぐに使える数千円も 私が定期的に補填していた。

その一部と思われる千円札も 荷物の二か所から出て来た。

「ゆうこにお小遣い! 夫桃さんと何か美味しい物食べてらっしゃい」と 得意げな笑顔の母の声が聴こえた。

元気だった頃 通っていた実家の近くの喫茶店のコーヒーチケットと一緒に 尊厳死協会の登録カードも。 あぁ、そうだった! 母は尊厳死も望んでたんだった。進んだ考えを持ち 行動に移せる母だったなぁ。

側に居る私に迷惑をかけないように・・・母の根源にあるのは これだった。

お母さん ほんと すごいよ。

 

 新聞に掲載された『難病の子どもが渡米して手術をする為の募金』の記事は切り取って すぐに銀行や郵便局から募金する母だった。

募金を終えると記事は仏壇に置いて 毎日 手術の成功を祈っていた。 

私が二十歳で指定難病を発病したから『難病の子ども』は他人事では無かったんだよね。

『〇〇ちゃん募金 △△円』のメモも財布の中にあった。

 

 

 2008年頃から 難聴の母の為にノートテイクするようになり、書いた紙が20センチくらいの高さになった時 思い切って捨てた。

この3年は もうノートテイクさえ読めなくなっていたから、私も書かなくなったけれど、少し前に書いたものが溜まっていた。

それを読むと 時系列が崩壊した母とのとんちんかんな会話がよみがえってくる。

 

 グループホームに入所する時 甥っ子(母にとっては孫)と母のツーショット写真を写真立てに入れて用意した。 それはそのまま特養にも持って行き、タンスの上に置いていた。

 写真立てを拭いて裏側を見て驚く。

『おはよう ばあばです。孫桃くん』たどたどしい文字。 孫桃の名前の漢字も一字違ってる。 自分の事は「おばあちゃん」と言い「ばあば」なんて一度も言わなかったのに。

私のノートテイク用のペンが隣にあったから 思わず書いちゃったんだね。

あの頃は まだ文字も書けたんだった。

 

 グループホームでは、毎月『メイクアップ教室』があり、化粧品メーカーの女性たちが華やかに賑やかに 肌のお手入れからメイクまでを指導してくれた。

 メイク後には、季節ごとの背景シートの前で写真撮影も。

ラミネート加工された写真の初めの頃は笑顔でピースサインもしてたのが、2015年半ばから だんだん表情が無くなってる。

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 写真は、母用にブレンドしたインスタントコーヒー。 元々 甘いコーヒーが好きな母は 家では牛乳にインスタントコーヒーを溶いてカフェオレを作っていた。

 支援員さんに それを頼むのは申し訳なかったので、私が『インスタントコーヒー・グラニュー糖・粉末クリーム』を混ぜて作った物を定期的に継ぎ足してた。(真ん中の瓶)

右奥は 家でブレンドしたものを入れて持って行く容器。 奥はグラニュー糖を加えたミルクティ。

これらは もったいなくて捨てられないよねぇ~。

って事で 私がせっせと飲んでます。 甘い甘~い。

 

 母の服は お洒落で高価な物は義母に着てもらう事にした。

グループホーム・特養では 全自動洗濯機と乾燥機に耐えられる安価な物を買い足してた。 下着も靴下も その度に 一つ一つ 私が名前を書いたなぁ。

 洗濯でヨレヨレになった下着やトップスは たくさん捨てた。 

この2週間、大きなゴミ袋 いくつ出しただろう。

 

 それでも まだ 捨てられない物がいっぱい残ってる。

 

 

 今日も アルバムからの2枚をご覧ください。

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 白黒写真しか見た事が無いので、このスカートが黄色い柄だったと思うのは私の記憶なんでしょうね。

もちろん母が端切れを買って縫ってくれたもの。

白いブラウスは 還暦になった私が まだ大好きなパフスリーブ。

「こ~んなに ちっちゃくってね、ミシンがかけられないから、袖だけ お母さん手縫いしたんだよ」と 写真見ながら いつも母が説明してくれた。

 私が子供を産めたら、きっと母は孫にたくさんの洋服を縫ってくれただろうなぁ・・・認知症も発症しなかったかもしれない。

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 伊勢湾台風の被災地だった南区から 3年後 中区へ引っ越す時の写真。

丸いバッグは赤だったと思う。向こう側には黒いアップリケみたいな模様があったように思う。

 

 ひとまず「愛しい人」は 終わりますが この先も 母の事を思い出したら何か書くと思います。

 

 

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2019年5月31日 (金)

愛しい人➃「お出かけの装い」

 母が息を引き取ってから「しばらくお二人で」と 支援員さん達が退室してから数分後・・・数十分後なのか、看護師さんと支援員さんが「お体きれいにしましょう」と ポットのお湯とタオルを持って来てくれた。

 湯灌だね。

 まず看護師さんが 母の口の中を綺麗にしてくれる。

「母桃さん、これお嫌だったんですよねぇ」 うんうん、歯科衛生士さんが定期的にケアに来てくれてたんだけど、母には何をされているのか理解できないから、無理やり口を開けられて、何か突っ込まれてぐりぐりされて嫌でしか無かったよね。

 何も食べていない口腔内は綺麗だった。最後に固形物を食べたのはいつだったんだろう・・・そんな事を思っては涙ぐんだ。

続いて、看護師さん・支援員さん・私の3人がかりで温かいタオルで母の体を拭く。

目を閉じたまま されるがままの母は、昨日までと何も変わってない。

 でも 私が最後に入浴介助のお手伝いさせてもらった時よりも 体はさらに痩せ細ってた。 あぁ骨格標本って こういう形だよねぇ・・・と思った。 

 介護ショーツの中のパッドは、綺麗な茶色の下痢状の便で汚れていた。

ああ、こんな綺麗なうんち出たんだ。何も食べてないのに・・・。

看護師さんが肛門に指を入れて「残ってるのを掻き出しますね」 ありがとうございます(涙)

「腫瘍があるから、指が入らないんです・・・それもすごく硬いです」

あぁ・・・本当に腫瘍が陣取ってたんだ・・・。

認知障碍が無ければ、痛い・お腹が張る・苦しいってうったえもあったんだろうなぁ。

眠ってるとしか見えなかった母・・・苦痛を一度も聞かされなかった私は本当に幸せだ。

 Mサイズの紙おむつはぶかぶかだった。 その上からロングショーツを穿かせた。 レースのついた肌シャツを着せ「娘さんがお気に入りの服を用意されてるって聞いてたんですけど」

はいはい^^ これなんですよ^^

 2枚の候補のうちの 水玉模様のワンピースを最後に決めた。

「これ 袖がもっと長かったのを母が自分で短くリメークしたんです」

グループホームに入所した頃は、母はまだ自分でストッキングも穿き、ワンピースもスカートも着ていた。

でも2015年以降はズボンしか穿いてない。

母のワンピース姿を見るのは久しぶり。

「わあ!可愛いですねーー!」

Haha3

看護師さんが思わず笑みをこぼす程 ワンピースを着た母は可愛らしかった。

この写真は、友人達に母の逝去を知らせた時、一緒に見てもらった。(顔部分もトリミング無しで)

よくよく後で見ると、亡くなった直後の写真よりも 左目が少しつり上がってる。 口腔内ケアの時 嫌がったのかな。

ぷっくり白くむくんで可愛い足には 水色のフリルソックス(足首にゴムが食い込まないように探したデザイン)を穿かせた。

 

 その後、他の利用者さん達や、隣のユニットの支援員さん達がお別れに来てくれる度に

「まあ!綺麗!」

「母桃さん お洒落な方だったんですねぇ!」

・・・口紅を塗ってやりたかった。 私 普段の外出の時 化粧直しする事はほぼ無いので バッグに口紅さえ持ってないのよね・・・。

 

 特養に入ってからの3年弱の間には 『今日は穏やかな顔してるな』と思った日には写真を撮った。

花柄の布団にくるまれて眠る母が可愛くて撮った写真を従姉に送信した時は「これ死んでないから」と注釈もつけて。

『死んでない』写真と ほとんど変わらない動かない母。

 

 母を送った日には、写真をたくさん撮って 今も 毎日 何度も何度も見ている。

1年前の『死んでない』写真よりも 亡くなった母は『これが本当のお母さんの顔だ』と思える。

 

 愛しい人①で書いたように、大学病院へ搬送されるまでの5時間弱、私は お出かけ服に着替えた母と一緒に過ごした。

静かで優しく少し切ない幸せな時間だった。

 

 さて、候補だった2枚のうちの1枚は・・・

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私の中で「一番 おかあさんらしい服」

これ 2人でウインドーショッピングしてる時に見つけたんだよね。共布のベルトが付いてたけど、母は木の葉が繋がったデザインのメタルチェーンをしてた。

「くるみ釦とループがいいでしょ。襟の形もお母さん 好きなんだわ」

そうだったよねぇ。 くるみ釦の良さは 私も近頃すごく感じる。

献体に預けた服は数年後、遺骨と一緒に帰ってくる。 でも このワンピースは ずっと手元に置いておきたかったんだ。

「おかあさん・・・」

家でワンピースを抱きしめてみた。

 

 私が着たいけど、おそらく 今の私のボディはこの中に入りきらない・・・。

 

 

 古いアルバムの中から見つけた写真もご覧ください。

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多分 幼稚園の遠足。

弟と私が着てる服は 全部 母の手作り。

遠足の敷物(レジャーシートなんて呼び方 無かった)の上でさえ 『お母さん座りかお姉さん座り』の昭和の女性。

子供達の成長が何よりの楽しみで生き甲斐だったよね。

 

 おかあさん 大好き。

 

 

 

 

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2019年5月23日 (木)

愛しい人➂「母の段取り」

 

【5月17日 金】

 菩提寺で密葬をお願いした。

普段の本堂とは別の場所に設えられた立派な祭壇。 戒名もいただいた。

夫と二人だけの葬送になるはずだった。

そしたらね、普段から親しく声をかけてくださる信徒さんが3人 それぞれの用事でいらしてて、一緒に参列してくださることに。

 読経・焼香の後、その中のMさんが「母桃さんって名前を見て どなただったかなぁ~と思ってたら、ご住職さまが 花桃さんのお母さんですよっておっしゃって、ああ!と。お会いした事あるもんね。是非 一緒に送らせてくださいってお願いしたの」

 あ~~~! そうだった!!

私 母がグループホームに入所してる時 ここへ連れて来た事あったわ。

まだ外部の人には ちゃんと挨拶できる程度の認知症だった。 着てた服も覚えてるのに、なぜ連れて来たのかは忘れた。

そこで、私のノートテイクを通してMさんとお話したんだった。

あの時の事が こうして繋がったんだ・・・お母さん すごいね。

 

 午後からは、この季節の外出が負担になる私の為に 夫が「運転手をする」と言ってくれて、市役所などの手続きに走り回った。

何しろ、母の印鑑などは実家にあるので、何も持たない私が一つ手続きをするだけで 余分な手間がかかる。

年金支給の停止が一番気がかりで『不正受給』にならないように・・・と焦る。

窓口で相談しているうちに死亡届さえ出せば自動的に停止はされることがわかった。それ以外に派生してくるいくつかは 連絡がついた弟が今後はしてくれるでしょう。

あちこちに問い合わせ、今できる限りの事を済ませ、書類ができるまで40分かかると聞いて、その間に母の居たホームへ。

運転手が居てくれて助かった!

 表札の無くなった『母の居た部屋』から最後の荷物を運び出し、支援員さん達に挨拶をし、ホームの写真を撮り、再び 市役所へ。

「今日できる事は これで終わった」

5月の風に吹かれてキラキラと輝く街路樹を見ながら帰る。

ちゃんと送れたんだなぁ・・・感慨にふける。

 母の所へ行く時に いつもおやつを買ったすスーパーで 夕飯の買い物をする。

数ヶ月前までは ヤクルトを一週間分と、母が食べやすい小さめのパンや塩味のせんべいなど、あれこれ考えながら選んでたなぁ・・・食べられなくなってからは「好きな物を何でも良いので召し上がっていただきましょう」となって、海苔巻きやお惣菜も買った。この3週間は パンが止められ、ヤクルトも止められ・・・だった。

 そんな事を思い出して一瞬 涙ぐんだけれど、すぐに消えた。

ああ、もうそんな心配しなくていいんだ・・・もう毎週 ここで買い物して母のホームへ行かなくていいんだ・・・。

解放感だった。

助手席で 流れていく夕方の景色を見ながら饒舌になっていた。

 

 もう何年も『しわくちゃの赤ちゃん』の母しか見てなかったけれど、最後に『しっかり者で気配りの人』だった母を見せてくれた事に気づく。

 私にとって最適なタイミングで 母は命を終えてくれた。

「私の居ない時に逝かないでよ」も守ってくれた。

もう一つ・・・19日に千葉へサッカー観戦に行く予定をたてていた。

余命2~3ヶ月と言われたので、4月末にはお別れなんだと思っていた。

それがGWも過ぎ、容態は悪化していく、19日は近づいてくる。

14日 母の顔の横にくっついて過ごす時間の中で「おかあさん・・・千葉 行っちゃだめ? ・・・行かせて?」と思わずつぶやいてしまったんだ私。

それは『私が帰ってくるまでは頑張って』の気持ちもあったけれど・・・。

あの日 帰宅してから『次に会いに行く18(土)に 母がまだ存命なら その日の帰りに新幹線指定席をキャンセルしよう。そして翌日19日は 母の横で一日過ごそう!』と ふと閃いたら それまでの『行きたいけどな・・・親不孝だよね・・・でも行きたいの』の葛藤がきれいに消えた。

 

 15日、電話があったのはお昼12時過ぎ。 私が一番活動的な時間帯。午前10時だったら、アヒル寝しててスマホの着信には気づかなかった。

 息を引き取ってから、献体の為に順繰りに時間が遅れて行ったのも私には幸せな時間だった。

医師がすぐに死亡診断書を書いてくれてしまったら、アイバンクも遺体搬送ももっと早かった。

健康診断に出かけなければ行けなかったお医者さんに感謝!

 霊柩車に母を乗せるまでの5時間、母と私は 次々に訪れる支援員さん達と話をし、優しい時間を共有でき、大学病院とやり取りをしながら、ベッドの母に触れ、花に囲まれた部屋で母とゆっくり過ごせた。

 大好きなワンピースを着た母を長時間 見ていられた。

 

 母が献体を望んだのにも 私への気配りがあった。

 父も私も 病院にはお世話になっていて、我が家では病院は感謝の対象、身近で信頼できる場所。

母は父が亡くなった時 献眼したのを機に「私もする」と 自分の死後の献眼と献体も申し込んだ。 臓器提供カードも。

親族の同意は私が書いたけれど、内心『最終的には私の判断でしないかもしれない』と思っていた。

 頭も体も元気だった頃の母は 不老会(献体)から定期的に届く冊子を私に見せては「ゆうこ 絶対お願いだよ」と。

「わかったわかった」

「献体して医学に役立つだけじゃなくて、ゆうこも葬儀や告別式しなくていいから楽なんだよ。お婆さんの告別式なんて 近所の人たちが義理で来てくれるだけで、お母さんは そんなのは必要ないから。葬儀のあとのお付き合いだって大変だし。お寺でお経あげてくれれば それが一番だからね」

 その通りだった。

16・17・18日 手続きや挨拶や片付けはあったけれど、本来なら ここに葬儀告別式もあったんだよね。 

まだそれほど暑くもなく 私が動けるギリギリの季節ではあったけれど、睡眠不足の身で葬儀告別式も気力でやっただろうな。 そこは やりきっても疲労は蓄積されたはず。

 お母さん さすがだわ! そこまで段取りしてくれて。

 風に吹かれながら 少し泣いて片付けをして・・・慌ただしさの無い3日間 ありがたかった。

 

「お母さん 行かせてくれてありがとう。行って来ます」仏壇の遺髪にお礼を言い、19・20日は千葉へ。(4時キックオフは日帰り可能だけれど、車椅子の私はタクシーがつかまらないと新幹線に間に合わない可能性があるのでホテル泊)

 

 帰宅した時 私は すっかり元気になっていた。

夫にそう言うと「その為にも行くといいと 僕は思ってましたよ」

夫にも感謝。

「千葉へ行かせて」と 昏睡の母に頼んだ親不孝娘に「しょうがないねぇ・・・いい歳してぇ・・・行ってらっしゃい」と 呆れて笑いながら、母はその時 幕引きの時刻を決定したのかもしれない。

1日ずれてたら 私の体力も気持ちも回復不完全で、行けなかった。

 お母さん ありがと! 

 

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